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デジタルデバイス 知識と思考・判断


 コロナ禍により、全国の小中学校ではタブレットなどの情報機器が導入されました。私の勤める市内では全ての小中学校でiPadが採用され、生徒は毎日家に持ち帰り、「文房具のように」毎日当たり前のように使用しています。小学生の我が子も家に帰ると毎日iPadに触れ、勉強だけでなくYouTubeなどのメディア視聴も含めて、1日も使用しない日はないほど、毎日当たり前のように使っています。そもそも私自身が、iPhone、iPad、MacBookなど、Apple製品を90年代から使用しているApple信者ですので、自分の子どもや学校の生徒がデジタルデバイスを使用することに関しては何の違和感もないし、ようやくそのような時代が来たか、と思っているくらいです。


 しかしながら、最近よく思うのです。「デジタルデバイスが人間の感覚を鈍らせ、創造力を失わせている」と。同じように感じている方は多いのではないでしょうか。

 

 作曲に関して言えば、私は8歳からBasicで打ち込みによる音楽づくりを始めた強者。この年代にしては珍しく小学校低学年からデジタルに触れて育ってきています。小さい頃からデジタルデバイスに触れることが全て悪だとは思いません。しかしながら、私が小学生の頃のデジタルデバイス(PC-8801mk2)は、今のようなデバイスとは全く異なり、基本的に全てプログラミングで動作していましたので、コンピュータ言語を知らなければ、音を鳴らすことも、テキストを表示させることもできませんでした。それでも当時は小学生向けにコンピュータの雑誌(マイコンBasicなど)が複数刊行されていたので、それを打ち込みながら一つ一つ言語を習得していたものです。

 それと比べると現代のコンピュータは、よりフィジカルで人間的で、複雑なロジックを知らずとも簡単に使えてしまいます。必要な情報にはすぐにアクセスできるし、何かやりたいと思うことがあればYouTube先生が何でも教えてくれます。

 だから、現代のデジタルデバイスは人間の思考力や創造力を低下させるばかりです。デジタルデバイスを濫用することで人の「何かやってみたい」「新しいものを生み出したい」という衝動は失われています。スマホを手にすれば色々な情報にアクセスできます。新たに作らなくても世の中は既にコンテンツで溢れています。新しいものを作るなんて面倒くさいことをする必要はほとんどありません。既にあるコンテンツを選んで組み合わせれば、ほとんどことはできてしまいます。

 でも、本当の創造力というのは、他者の既製品の組み合わせに一生懸命になる集中力のことではなく、自分自身の中にある知識と技能をフル動員させ、自分自身で考えて、自分が納得いくまで試行錯誤を繰り返すという往還の中で発揮される力だと思います。この定義もネットからコピペしたものではなく、自分で生み出した定義です。創造力を発揮して出来上がったものが実際には他の何かと結果的に似ていたとしても、上のようにして産み出されたものならば、その人にとっては創造力を発揮したものと言えるし、そうやって繰り返していくうちに他者からも評価を受け、創造力はより強化されていくものです。

 世界は先人の多くの創造力が発揮されて産み出されたものやことで溢れています。国の発展もそう。持続可能な世の中にするためにも、人々は創造力を絶やしてはいけません。


 だから、これからは思考力・判断力・表現力をこれまで以上に強化しなければならず、学校ではその力の育成に力を入れましょうと言っているのが文部科学省の書いた学習指導要領なのですが、私はこのロジックに「うーん。。。」と疑問を感じているのです。


 作曲など、まさに創造力が試され発揮される行為です。たとえ結果的に出来上がったものが既存の何かに似ていたとしても、きっかけが模倣から始まったとしても、そこから自分で考え、試行して出来上がったものであれば創造力を発揮して作られた作品と言って良いと私は思います。

 でも、最初から創造力を発揮できたわけではありません。エール・マーチも直江の婿えらびも、数えきれないほどの音楽経験や音楽体験を積んでいく中で徐々に音楽的思想が形成され、その結果ようやく産み出されたものです。私はワーキングメモリが低い人間なので、音楽以外のことで新しく何かに取り組むのがものすごく苦手だから分かりますが、やり方をちょっとやそっと教わって練習したくらいでは上手くスポーツできませんし、料理できませんし、面白いことも言えません。

 その意味では、創造力とセンスは似ているのかも知れません。どちらも「磨かれるもの」と表現できますが、何を磨くかと言えば、知識を磨き(深め)技能を磨いている(向上させている)のです。

 「知識はネットで検索できるから、それを使う思考・判断の方がこれからは大事」というロジックは飛躍しすぎというか荒すぎていて、「ちょっと待ってよ」と思う訳です。思考力も判断力も頭の中で発揮されるものなんだから、その材料となる知識も頭の中にないと処理が追いつきません。クラウド上にあるデータを使って演算処理をするのと、SSDのデータを使って演算処理をするのを比べれば分かりますが、圧倒的にSSDの方が処理が速い訳です。私みたいに処理速度の遅い人間だったら尚のことです。外部の知識を検索するだけで時間がかかるから、結果的にパフォーマンスは落ちるのです。やはり、多量に知識を詰め込んだ状態は思考力や判断力の発揮に必須条件です。

 実は、同じことは学習指導要領も言っているのです。知識・技能の土台があってこその思考力・判断力・表現力だと。ということは、これまで以上に学習する内容が増える、つまり授業時数が増えるのかといえば、そうではない。年間の授業時数は変わらず、その中で思考・判断に割り当てる時間が多くなっている。これは、純粋に知識・技能の学習量を減らして、浮いた時間を思考・判断に充てているということなのですが、それで結果的に思考力・判断力が向上するのか、とても疑問です。

 私はシンプルに、昔の教育に戻すことが重要だと思っています。総合的な学習の時間は撤廃し、その時間を国語と算数・数学に充てるべきです。また、音楽や図工・美術など芸術をより深く学ぶことも重要です。芸術に対する理解が浅いから文化が育たず衰退し、サブカルチャーばかりが横行して、国全体の文化レベルが下がっているのです。


 デジタルデバイスを子ども一人に一台与えるのはよしとしても、与えっぱなしはだめ。特に小学生にiPadを家に持ち帰らせてはいけません。YouTubeの見放題が子どもの思考力・判断力の低下を招くだけです。今、子どもの想像力は日々失われ続けています。霞ヶ関のお役人はいい加減、この事実に目を向けるべきです。